昭和41年02月08日 夜の御理解
教典の中に、「疑いをさりて、信心してみよ、みかげは我が心にあり」と。疑いをさりて、信心をしてみよ、みかげ、霊験、みかげは我が心にありと。また、「神は、声も無し、形も見えず、疑えば限りなし、恐るべし、恐るべし」と。いうう風にも教えておられます。私共はですね。神様を疑うということ。なるほど、姿も見えなければ、声もないのでございますから、疑えば、限りがない。
その、恐るべし、恐るべしとこう仰る、その、恐るべし恐るべしという、私はその辺は、まだ、私は分かりません。けれども、確かにその、神様を信ずるということ。ね。疑いをさりて、信心をしてみよとこう仰っておられる。信心をしてみよというところ。みかげは我が心にありと。ですから、信心とは、神様を疑っておる心と戦うこと。神様を、いわば、半信半疑、または初めから疑って掛かる。疑って掛かれば、おかげも全部嘘だと仰る。霊験は無いと仰る。半信半疑なら、おかげも半分と。ね。
ですから、ほんとに、限りなく神様を信じきらせて頂く所から、限りない、いわば、おかげというものが頂けれるのである。それでその、信心とは、ほんとに神様を神じれれる、うー、ことのために、私共が精進する。そこで、私は、一番初めに、どういうようなことになるのかというと、私は、先生を信ずる以外に無いと思う。いわゆる、先生の信心を信ずる以外にないと思う。
というて、ほんなら、さあ、私の信心を信じなさいと、歌の文句じゃないけれども、私は、信じなさい、信じなさいだけではいけませんけれどもです。そこで、如何に、まあ、お取次ぎをさせて頂く先生がです。なるほど、神様のおかげとは、こういうようなものぞと言うことを、身をもって、頂いておられる、現しておられる先生じゃなからなければ、本当の神様は、皆に伝えられないということになる。ね。
それは、お取次ぎを信ずるとか、お取次ぎのことを信じさせてもらうというけれども、お取次ぎを頂いて、おかげを受けるということから、まあ、神様を、おぼろげにでも何でも分かってくるのですけれども、それではですね。確かにおぼろげで有ってから、次に、また、疑問の点が大きくなってくる。ね。
皆さんは、あんまりまだ、ご承知でなかろうと思うですけれども、久保山先生あたりは、ようご承知だと。私この、六畳の部屋でお取次ぎさせて頂いておるころです。そのころは、そこの、一間半のところへ、神様と霊神様がお祭りしてあった。そこの、庭の戸、ガラスのところは障子だった。まあ、そういうようなその、ところで、皆さんが願いに見えると、ここで私が、神様にお取次ぎさせて頂いておる、いわゆる、十五年前の話なんです。そのころです。私はあの、先ず、神様を信じなければですね。
不思議なこっじゃある、神様というものは。本当、やっぱほんとにござるとじゃろと、言うようなですね。もう、形もなからなければ、姿もなければ、声もないのですから、それを信じさせる一つの、まあ、方法としてです。神様は、こういうような手を使ってくださった時代があるのです。それとても、やはり、私の信心に下さったものだと思うんですけれどもね。ご神飯がお供えしてある。霊神さまと、神様と。
もう皆さんもご承知のように、ここはもうハエが名物です。もうハイがワンワン言いよる。それにですね、私が御祈念をさせてもらう、そしてお話を付けさせてもらう。私がね、貴方にこうやって、お話を伝えておる間にお話も、なるほどなるほどと、合点して聞いてもらわんならんけれど、やはり神様も合点しなさらなきゃいかんのです。
それで私が、貴方にこうやって、お話している間に、ほら見て御覧なさい、霊神様のほうには、それこそ、黒帽子かぶせたごつご神飯に、真っ黒ハエがたかってる。ところが、神様のほうには、一匹のハエも止まってなかった。同じところに、区切りもしない。ただ、八足が違うだけなんです。だからね。もしこのあれに、別にまじないもなぁにもしてないよって。薬を塗ってあるなんとかって言うことは、何にも無いと。
ただのご神飯。けれども、神様のほうには、一匹のハエもたからない、なら、なるほど、神様の働きとは、不思議なこっじゃある。神様とはござるなという事を、話を聞き、そちらを見ながら、私の話を聞いて下さいということで、私は話をした。ああいう時代が、やはり、一年ぐらい続きましたですね。初めて参ってきた人は、なるほど不思議なことじゃある。神様とはござるなあというようなことをです。そういうようなことの働きの中から、あー、分からせて下さっておったんですけれども、そういうことで分かって、なるほど、おかげは受けても、それは、また、直ぐ消えてゆく。ね。
そこで、私共は、神様を信ずる力を養うていくということ。ために先ず、私共は神様を、その、半信半疑でおる。この大体ですね、神様を信ずるということは、段々、話を聞けば分かるんですね。そういう、神様を信ずることが段々出来るなら良いけれども、神様の、どういう働きをして下さるかということは、なかなか信じられない。この神様は、ほんなら、どう言う働きをして下さるか。
先日も、熊本から、参ってきた方があるんです。子供さんが目を怪我しておる。医者が義眼にしなければいかんち言う。ね。それを、ここでお話を頂いて、あの、長男の目に、竹が刺さったとき、目がこうひっくり返ったようになったときに、おかげを、本当におかげを頂いて、正眼のおかげを頂いておる話をされて、おみちびきして参って見えた。けれども、帰りがけに、言うて行かれた。どんなに考えても、神様、たとえばその、精神的なものだから、ね。
お腹の病気かなんかならばです。頭が痛いかなんかならば、まあ、それで助かるかも知れんけれども、まあ、言うならばその、そういう怪我というようなことは、やはり一応、医者に見せなければ、医者に見てもらわなければ、ね。神様に手術をして下さいとか、神様に、外科のことはということは出来んというふうに信じておる。こら、信心しておっても、やはりそれ風にしか信じてない人が沢山おりますでしょう。
ですからその、神様を否定はせん。ね。疑いはせんけれども、いわば、その程度にしか、その神様の働きというものがです。どのような働きをしてくださる神様かという事を、私共が、信ずるということは、なかなかやはり容易なことではない。ね。そこで私は、結局思うんですけれども、お道の信心は、まあ、有り難うならせていただく稽古だと。そこで、そのほんなら、神様を信ずるとか、信じないは別として、有り難うならせて頂くために、例えば、教祖の御教えを私共は行じて見る。ね。
そこから、確かに有難くならせて頂けれる。その、有難い心で、神様の心をキャッチする。いわゆる、霊験をキャッチする。そこから、一歩一歩、神様に近づいていく。また、神様の働きをいよいよ、確信持って行けれるところに、進んでいく以外に道はなかろうとこう思う。ね。段々、こうやって、お引き寄せを頂いていきよるうちにです。神様は分からんけれども、もう、先生だけは絶対であると。というような、ま、その、いただき方。これなんかは、神様に近づかせていただく一番手っ取り早い話だとこう思うですね。先生が立派でさえあれば、確かに、その先生を信ずることが出来る。
また、先生が、その信心によっては、表しておられるそのおかげをまた信ずることが出来る。今日も東京から、稔さんから手紙が来ております。そして、私の手紙を何時も見せていただくと、もう、その、挨拶とかその、言葉のあやとかというのじゃなくてですね、もう、一言一言が、もう実感として迫ってくるようにこの感じるんですね。親先生お許しくださいという時には、もうほんとにお許し下さいと言いよる感じがするのです。先生有り難うございます、有り難うございますというときは、繰り返しとるです。
もうそれが、本当に有難いものだとこう思っておるです。有難いものに感じられるです。ね。どうぞ、神様にお詫びをして下さい。そんなもんじゃないです。もう、私に詫びておる。私に有難いと。親先生、有り難うございますと、こうなんです。ね。だから、あの人が何時も申しますのに、僕には神様が分からんといいます。分からんとが本当でしょう。けども、親先生だけは、信じておる、確信しておる。
だから、僕には、神様即親先生だというわけです。ね。そこから、神様を信ずる力というものが、段々頂けてくる。そして、その先生を、どこを信じておるかと。そして、その先生を、例えば、ほんなら、神様のおかげを表しておる。ね。その現しておられるそれは、どういう先生の心の状態の中から、その霊験を現しておられるかと。ね。そこんところへ、突っ込んで信心が出来るようになったときです。
私は、稔さんは、いよいよ神様を確信することが出来るだろう。自分もそれを、頂くことが出来るだろう。はあ、先生の、あれが素晴らしいんだと。あれが神様を把握してござるんだと。あれで神様を現してござるんだ、働きを現してござるんだということが分かったとき、そこを自分のものにしようと精進するときです。ね。先生を通して、いわゆる、神様が分からしてもらう。
「疑いをさりて信心をしてみよ、みかげは我が心にあり」と。「神は声も無し形も見えず、疑えば限りなし、恐るべし恐るべし」と。ね。そういう風に、例えば、もう、疑えば限りがない神様。けれども、私共の心の中にです。私共の、その、有るやら、無いやら分からない、その心でです。それを、有るやら無いやら分からん神様をキャッチしていこうというのである。けども、そういう生き方が確かに、幸せであると、幸せを感じておられる、おかげを受けておられる人たちの姿というものを見たときです。神様を、まあ、否定するわけには行かない。
神様を肯定する。その神様を、お互いが、いよいよ、自分のものにして行くことのためにです。ね。んなら、この、信ずるためにでなくて、ほんとに、有難くならせて頂くために、どういう信心をさせて頂いたら良いかと。どういうあり方にならせて頂いたら良いかということに、焦点を置いて信心していくところにです。なるほど、神様の働きというのは、こういうものだというものを、その、こちらの精進の如何によって、それを現すことが出来る。
そこに、いよいよ神様の、確信がもたれるようになり、本当の信心させて頂くものの、幸せというかね。私はその、「神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ない」とこう仰る御教えがあります。ね。ですから、神を信ずる氏子は多いけれどもというその、神様を信ずる氏子に先ず、ならしてもらい。ね。そして、その神様の働きをいよいよ、どういう働きをしてくださり、どういう私共氏子の上に思いをかけておって下さる神様かという事を分からせてもらい。
それを、私共が身をもって、自分のまた、心を持ってそれを、キャッチして行く以外に無い。私は、まあだ、その神様を疑うということがです。最後に、その、恐るべし恐るべしと仰っておられる、この、恐るべし恐るべしと仰る意味がまだ分からん。例えば、神様は、有難いお方じゃと、言うことが分かると同時に、神様は、怖い方じゃとも、分からなければならんと、私は頂いております。ね。
けれども、私共は、神様が、怖い方じゃという事をです。まだ、ほんとに、その実感的に頂いてないんですねえ。だから、そういう意味でもなさそうですけど、まあ、そげな意味合いにおいても、やはり、恐るべし恐るべしという事を仰っておられるのだろうと、こう思うのですけれども、恐るべし恐るべし、疑いをされよとこう仰る。ね。いよいよ私共の心の中から、その疑いをさらせて貰う。ね。信心、そこには素直な信心が、求められるということと同時にです。
やはり、教学的な意味においても、そこの神様を分からせて頂くと同時に、自分を、有り難うならせて頂くということ。信心意外にはないと。その事のために、どういう信心させて貰うたら、自分の心が有難く、喜べるようになるかという事をです。先ず、焦点をおかせてもらう。その心で、神様をキャッチしていくということ。同時に、または、皆さんの生き方ではないですけれども、親先生の信心というものをね。信ずるところからです、その親先生に現れておられるところの、また、現しておられるところのおかげとか、神様というものをです。
どういう先生の信心から表しておられるかという事を追求していく。ね。そこんところを、皆さんのものにして行くというような、私は信心が必要だと、ね。その先に、とにかく一つ、本気で修行してみようといったようなことにもなってくるのです。ね。若いとき、私は、そういう本気での修行に取り組ませて頂いて、そうして、生き生きした神様をその、自分の信心によって現し得る。また、確信出来れる神様を頂いておかねばならんというふうに思うですね。どうぞ。
只今、御祈念前に、あの、青年会の方たちのために、御祈念を早めに済ませてから、御理解を頂いておりましたけど、その、御理解に、もうひとくち大事なことを添えとかにゃならない事でございますから、その事を聞いていただきます。神様をこの信ずるということ。それを、今日の御理解が、あの「疑いをさりて信心してみよ、みかげは我が心にあり」ということと。
「神は声もなし形も見えず、疑えば限りなし、恐るべし恐るべし」というような、教典の中の御教えを、まあ引用してから、その神様をこの信ずるということが、神様をまた信ずる、この神を信ずるものを神は信ずるとこう仰るのでございますから、そのためにまあ、色々な角度からお話したんですが、結局この神ながらなおかげを頂くために、神ながらな道を歩かなければならないということですね、結論いたしますと。
ですからその、神ながらな道を歩かなければ、神ながらなおかげは受けられないと。神ながらなおかげを頂くから、いよいよ神様が確信出来るのだということなんですねえ。そういうことをまあ、そのために先ず、先生を信ずると。例えば、先生がおかげを現しておられる、神様を現しておられる、その先生を信ずる以外にはない。先ず、そういうところから、入っていかねばならんといったようなことの中に、只今、御理解を頂き終わりましたときに、あの、妹が御理解を頂きながら頂いたことがあるんですね。
それを、只今、御祈念前にお届けいたしますから、その事を、ほんと聞いてもらっときゃ良かったねと、言うた事だったんですけれど。この脈と。山脈の脈という字ですね。それを、そのこれをいくつも、脈という字を、脈、脈と頂くわけです。結局私が、何時も申します神様と、私共の交流ということですたいね。いわゆる、神様と私共が、絶えずですね、脈々として、こう血が通うているように、神様を感じておるというおかげを受けたら、神様を信じないというわけには参りませんのです。ね。
神様と、どんなような場合でも通うておるということ。ね。それが、今日の御理解から頂きますと、有り難うならせていただく、稽古に精進しとらないと、その、神様とこの、脈々として通うことが出来んのですよ。ね。私、只今のことを、今晩は御理解を、御無礼しようと思ったんです。只今、改めて、御祈念させて頂いて、お礼申させてもらいよりましたらね、あの、小学校のときに、なんと、絵師の苦心かなんかというのが、読本に御座いましたです。
皆さんのときはどうだったでしょうか。ある宿屋へ、その、絵描きさんが泊まったんですね。ところがその、金が払えないもんですから、その、自分が、そこの宿賃の代わりに、そこの襖に鶴の絵を描いて、まあ、宿賃としたと。そしてその絵描きはまた旅に出たんです。ところが、何日かしてですね、ある山を、山道を通っていますと、その、もう素晴らしいその松の枝があったというわけですねえ。
ははあ、こういう素晴らしい松の枝に鶴を止まらせたら、まあだ素晴らしかったろうと思うたから、またその、何日間か掛かってから、その宿屋まで、歩いて帰りましてね。もう、随分昔のことですから、歩いて帰ったでしょうけど。帰って、その松の一枝を書き添えたという、この絵師の苦心ということについてですね。あのお、そんなのがございましたんですね。
だから、ははあ、私もやっぱり、今の一枝を、こう添えておくことが大事なことだと、これを久保山先生が記録される。または、このテープが、永久に残るかも分かりません。時に、やはりこの、人よりも添えておかなければですね。添えておくことが、やっぱり実意だと、こう感じたですから、ま、今ひとくち聞いて頂いたわけなんですね。
どうぞ。